読書日記「能という演劇を歩く」

能苑逍遥(中)能という演劇を歩く (阪大リーブル017) 「能という演劇を歩く」 天野文雄
復曲能『維盛』と「紅炉一点の雪」、の項に思い出し笑い。
昔、灼熱の炉に一片の雪が落ちても跡形もなく消えてしまうように、後に何も残さない、その人物が居たということ自体残さない執着のない生き方、という解釈が気に入っていたのだが、それはあまりお茶の人々に好まれなくて、赤と白の対比の美とか、白さの際立つ清々しい生き方、などがお好みだった。人の生きた証しは人を残すことで、「弟子」のいる世界では並立しにくいのかもね。十牛図の十番目は、人それぞれということか。


この本の、紅炉上の雪の「あっという間」そのものが意味すること、が面白かった。禅機画の「香厳撃竹」と同じ。思考が高まっているとき、突発的なカツンという音と同時に解決してしまう。平維盛は、富士川の水鳥の音では悟らなかったが、幽霊となって太刀で一文字に払った瞬間、成仏得脱したのであった…。


一休さんは、悩んで自殺寸前の時、水鳥の飛び立つ音で悟ったとか。突然音がすることが契機になるのは有りそうだが、一点の雪では、じゅ〜と沸騰する音もしないでしょうし、眼で見る状況の一瞬にびりびりっとくるのは、難度高そう…と思ってしまう。