ひとり反省会

お能お稽古発表会  平成24年 9月30日(日)
  2012年 秋の会    於: 杉並能楽堂


ワキの僧の2曲をどう違えるか、など考えていたのだが、座った時にはすっかり抜けていたのであった。
◆ 素謡
中伝 」 ワキ
途中で、ごつごつしないようにという注意点を思い出した所から、滑らかに。そこからと、「あな無残やな・・・」あたり、まあまあと思う。シテと夫婦であるという感覚、妻への共感など、いまいち。“隣の気の毒な婦人”などとの差異は、どうしたら出せるのだろうか。そもそも、妻が他界しても“侍女”は残るわけで、観客としては「奥様、痩せ細っている場合ではございませんよ」という感じだが、絶望の深さいかばかりか・・・。その夫とは、何者?


中伝芭蕉」 ワキ
前場のみであったので、気持ちを持っていくのが難しかった。女人成仏は草木レベルなのね、とか、草木悉皆成仏って素晴らしい、とか何時もながらの主題や、“破れた芭蕉葉”の、他では表わしようのない無常観に感動、などなど思い浮かべて着席。本日の“芭蕉の仮の姿の女人”は、老女のような凄みがあって、晩秋へ向けて留まることなく過ぎてゆく感じ、破れ果てるまでの道、のイメージが湧いてよかった。僧は、吹く風や葉擦れの中に座すという感じ。私は声量もなく、歌謡曲的だが、それで“お能”の雰囲気に成れたように思える一期一会に、感謝したい。
芭蕉」の故事のような「艶っぽい過去を秘めた中年、老女」を謡うのは面白そう。やっと、関寺小町や鸚鵡小町の諧謔おばあちゃまに、少しは意識の向くトシになりました!?


中伝実盛」 シテ
失敗。何とかお手本に近付こうとしたが、十分に消化しないまま本番を迎えた。本番直前カットで、シテ謡から始まることが残念であった。ワキによる環境構築後、何かが起こる気配の内に登場したいものだ。
まあとにかく、江戸時代の走り書きのような「白表紙本」の中の「白表紙本」で、今までで最高に分かり難い謡本であった。そもそも「実盛」が、どのようによいお能なのか、・・・?である。白洲正子も「謡曲平家物語」(講談社文芸文庫)で、鑑賞しがいのある人物伝として解説していて、悩める素人に救いの道は無いようだ。


清経」 地謡
地頭に合わせていけばよいと思いつつ、自分的には颯爽と清々しく、キリを終えた。そうなってしまった。曲趣に合っていたのだろうかと、後で思った。


◆ 仕舞
中習船弁慶キリ
練習の時には苦手だった扇(刀)になってからの部分が、最高の動きで格好良く出来た、と思う。スピード、迫力、波に流される所、どれも雰囲気に乗れた。長刀では、つるつる滑る舞台に踏ん張りが利かず、波を蹴る所の2回目がささやかになったのが、“忘れた部分”より残念だ。どのような事態にも対処できるよう、常に重心を保った腰と膝でいることが大切と身に沁みた。もう疲れた頃の遅い番組に、気力を充実させ、気迫を持って臨めたのは、舞台の魔力かもしれない。不思議に感じた。


長刀を扱うとき、持つ手以外は握らず支えるだけ、という部分の記憶が飛んでいるので、出来ていなかったかも。その他長刀あれこれは、次の課題に♪


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会近くに、ぶ厚い「光圀伝」を読み耽ったり、TV「鼓の家」の深夜再放送を見たり、他行事への参加に気を取られたり、どうも、自分を会へ向けて盛り上げる気力に陰りが・・・。これからは、集中力が減退していることを予定に入れ、今までより長い期間で、日々少しずつ仕上げていくようにしなければならない、ようだ。それがなかなか出来ない性格で・・・困ったものです。