下剋上の文化

「下剋上の文化」 横井 清  東京大学出版会
痒いところに手が届かない本であった。「なるほど、それで?」とページをめくると、次の項に進行。「目次の本」という感じ。個々の社会現象解説は面白い部分があり、それをつなげて別の本に持ち越し自力で解決せよ、という本なのだ。
  (著者の大昔の途中経過報告に\3200!かっちーんときた感じ)


中世には、公衆浴場がけっこうあって、応仁乱中、戦場以外で出会った時にはほとんど敵味方ぶつかり合わずに上手に付き合っていて、お風呂やさんでも一緒に入っていたのだそうです。中級以下の公家も気軽に入りに来ていたが、公家社会では、ケガレを忌み嫌う度合いが異常で、ひとたびどこかで死者がでると、その関係者に会ったというだけで第二次(第三次かも)ケガレになるので、結局、ケガレ危険度の高い庶民の場所への出入りは禁止されたらしい。花の下連歌の覆面?匿名参加も同じかも。
寺院もお風呂を利用して、お風呂屋さんをしていたとか。


また度量升の大きさが一定していなくて、上に収める時は、大きな升で徴収され、給付を受け取る時には小さい升で量られたりしたそうで、庶民は取られっ放し。度量衡の完全全国統一を果たした初めての権力者は、秀吉。 律令制って中央空回りだったのか…。


角倉の祖、吉田宗忠は、帯を商う帯座の足利幕府公認座頭職で、角倉という土倉業も営んでいた。素人を意味する手猿楽の名手で、公家文化人と付き合い、禁中で太夫格で能七番を演じたりで、新興富裕層も、武士が官と位を求めたように、天皇公家サロンの権威を必要とした。 (茶道資料館「又玅斎直叟と角倉家」を拝見したばかり)


「下剋上」(下克上とは書きたくないらしい)は五行の木火土金水の「木剋土」などの連鎖から陰陽道につながり、「上剋下」は順当で吉、逆の「下剋上」は凶、君夫官鬼は勝者・指導者で「上」、臣妻財は負者・服従者で「下」と考えられた。それは「下が上に克つ」という現象が存在することの肯定であり、道理の因果として必然と看做し、非道行為ではあっても正当づけられる公理として援用されていった、のだそうです。


「物狂」には「ものぐるい」と「ぶっきょう」があり、「ものぐるい」は超自然的他者との関連、ある種の価値が伴っている。「ぶっきょう」は否定的。
ケ…日常・正気=俗  ハレ…祭・狂気=聖 というのが根本で、「ものぐるい」は「遊び戯れ舞い歌う」忘我の状態、ハレの聖。
中世の集団ヒステリーのパワーはすごかったらしい。 以下云々。