明宿集

中沢新一著「精霊の王」の巻末の現代語訳「金春禅竹著 明宿集」
住吉も三輪も人丸も業平も、ぜーんぶ翁の現われ。
『神祇は正直をもっぱらの宗旨となさっているので、出家僧は自然とお参りしなくなっている』(笑える) 『…人の心も汚染されてしまってからは、釈迦如来(西天の真人)に教えをお譲り申し上げて、ご神託をすっかりやめてしまわれた』
聖徳太子や秦河勝の原典。別に聖徳太子とは誰か?という議論があることを考え合わせると、歴史は霧の中。


続けて「金春禅竹の世界」(ZEAMI 中世の芸術と文化3)森話社
明宿集の“主権の哲学” は、ここで「宿神は非人宿の神」と明言され(松岡・中沢対談)、「精霊の王」にしても、天地開闢以前の神が被差別のなかに生き残る過程が、清浄・不浄は同じ、というような摩訶不思議な現象で、やがて、現世の王の政治権力維持の機構としてアパルトヘイトに。
丸山真男に欠けているのは、宿神を知った上での天皇観だそう。しかし、知ったらからといって、何か別なご意見が出るだろうか。
論文集「金春禅竹の世界」は、深読みの書という感じで、それぞれマニアックな主題がおもしろい。
『日本の哲学は、西洋のように哲学書ではなく、音や歌や体の動きを伴った芸能の中にある。』


ところで、主権在民というのは、およそ話題になりませんね。