伊勢参り考

狂言のお話に、太郎冠者が無断で伊勢参りに行ってしまう、or 伊勢参りの口実で欠勤、とかあって、労使関係や、動産にも等しい奴隷的太郎冠者もあった、ということからすると、なぜそういうことが出来るのか不思議に感じていた。
「時代小説傑作選 犬道楽江戸草紙」の中の、「犬の抜けまいり  佐江衆一」で疑問が解決した。小説なのでどこまで事実かわからないが、それなりの検証はできるのだろうと思う。それによると、


「お蔭まいり」「抜けまいり」は、諸国の農民や商家の奉公人や若い女房たちが突然に仕事を投げ出し、子供達まで神隠しにあったように家を抜け出し、団体になって伊勢参りに出かけた社会現象。 お伊勢参りと言って「おかげさま」と書いた柄杓を持っていれば、道中手形がなくても、ただで船に乗せてもらえたり、食べ物を施されたり、無銭で往復できた。一生に一度の大行事であり、幕府も諸藩も雇い主も黙認の、束の間の開放であった。
松浦青山の甲子夜話(かしやわ)では、起源を天正末期としているそうで、 慶安3年(1650)、宝永2年(1705)…3百数十万人、享保3年(1718)、明和8年(1771)…2百万人、文政13年(1830)…5百万人、慶応3年(1867)などの規模が大きく、およそ60年周期で繰り返されている、とか。
「犬の抜けまいり」は、文政の時に、阿波の呉服商の犬が子供の団体について出かけ、途中あちこちで養われ寝るところを与えられ、宿場の雑踏でスリを捕まえるのに貢献し、ご褒美やら御祓の札やらを首につけてもらって、無事帰宅するお話。
お伊勢講や、諸国を回って参詣人を集め引率する神宮の係りなどについて読んだことはあるが、このような社会的弱者の息抜き方法があったとは知らなかった。


“人さらい”の人身売買で子供が行方不明になって、母親が捜し歩くお能があるかと思えば、お伊勢参り(の集団家出で無事に帰る子供)もあったり、お能や狂言は、歴史を映すスクリーンのようなものなのですね。