古今の色

『竹に上下の節あり 松に古今の色なし』『松樹千年翠』というのは、「茶席の禅語」の常識のように思って、それ以上考えたこともなかったが、お能では、似たような表現で論争があった、ということを知った。
能「高砂」の『中にもこの松は…千秋の緑をなして古今の色を見す』というところを、今、金春流は「古今の色を見ず」と濁点で謡うそうですが、最近までは、「見す」だったそうです。その解釈の違いは、
*「古今の色を見す」…今見る松の緑は、千年の昔の色と同じであり、昔の色と今の色と、両方ともに見せている。
*「古今の色を見ず」…松の色は、昔も今も同じ緑をしているので、昔の色、今の色という区別を見ない。
どちらも、松の緑が不変であることは、同じである。
★金春信高説…「古今」とは、反対の意味を持つ二字の一方のみに意味のある表現で、「古(今)の色を見す」と澄んで、「昔ながらの色を見せている」と解釈すべき。松が主語であるから、否定するのなら、「松は古今の色を見せず」でなければならない。
現在「見ず」(見ない)と謡うのは、観世流と金春流、「見す」(見せる)と謡うのは、宝生流、金剛流、喜多流、なそうです。(「花の翳」 金春信高 より)