“たそがれ”と妖怪

「たそがれ」は、「黄昏」でしか考えたことがなかったが、夕方は、別名「たそかれ時」 「かはたれ時」で、「誰そ彼」 「彼は誰」なのだそうです。『薄闇のなかで、誰だったかなといぶかしくおもうような時刻』『徐々に闇が濃くなって、近づいてきた人の輪郭もぼやけて、気配は感じるけれど正体はわからない、もっとも怖い時間』(A新聞月刊配布誌)
江戸では、幽霊が出るのは丑三つ時(午前2時頃)、妖怪がでるのは“たそかれ”時、ときまっていた、そうな。
水木しげるさんは、幽霊は、出てくる理由が一様に「うらみ」で単純すぎるので、あまり興味がないそうです。「うらみ」というより、「心残り」「執心」という場合も多いのではないかと思うのですが…。
お能についてはどうでしょうね。「落葉」の源氏物語は好きではないけれど、お能の舞台は好きです。落葉、雪、桜、現れたときは幽霊や化身でも、はらはらと降りしきるなかに無我無心の感じ、それでいて圧倒的な自然のすごさ、いいなあ。新作能「一石仙人」も、獅子座の流星群の夜空を切り裂くスケールの前での、ちっちゃな人間の無力感、というようなものを、もっと感じたかった。
草木の精はどの範疇なのでしょう。「天鼓」の終わりも、音の精みたいなのがよかった。ところで、「西行桜」や「遊行柳」の青春版、ないものでしょうか。(ここで妙に現実的に…)