面 おもて

例えば「大飛出」(おおとびで)  「能と能面」初代金剛 巌 著

写真に掲げた大飛出は興隆時代の是閑吉満の赤鶴一透斎の塁を摩するともいえる名作である。刀法雄渾、全面に施された金泥彩色の扱も秀抜で、気高く猛々しい神性を遺憾なくあらわしている。この顔は陽中の陽である。歓喜の絶頂にあって聖寿の万歳を絶叫した瞬間の表情である。
…神鬼畜の面はすべて瞬間の表情をもっていて…

わかりやすーい。金ぴかで、目玉が落ちそうな飛出は好きでなかったが、にゃーるほど、という感じ。それにしてもすごい。


「べし見」は

…非常に憤怒している人があるとする。胸中に憤怒の激情を渦巻かせながら、じっと相手のものを睨みつけている。…いくらうちからの激情が高まっても言葉は動作にあらわれない。この場合その憤怒はその質よりも量で人に迫ってくるが、これが吽の形で力道なのである。…力動は発表せられないものにものをいわせようというのであるから、じっと見つめ、どちらかといえば鈍重である。一たび動くときは喬木の地響を立てて倒れるものすさまじさがある。
…獅子は細動にはいるのはなにゆえか…狂舞すべきこの曲にもし力道のべし見をつけると、おそらく牡丹を睨みつけているよりほかないことになる。
…細動の小べし見は前身が人間であったとかすべて 規模の雄大な魔王ではなく、個人を相手に出現するような鬼であって…

好きな大べし見が、憤怒だけではね…と不満だったが、

東京博物館蔵の大べし見は類を絶して豪宕である。すべてこの人(赤鶴)の作は雄渾な鎌倉彫刻のもつ気概があらわれており、その刀法も鑿一挺を縦横に駆使し…。 その彩色にもなんの技巧を凝らすことがない。その技法は剛毅素朴にして 見るものはただちに雄渾晴朗の気に接するのである。恐ろしい鬼の面も赤鶴の作になるものは怪奇陰惨でなく、すこやかではればれとしてたのしい。時にはある諧謔を感ずるのである。

赤鶴でなくても、諧謔味がある。そこが好きだ。口の形や、ほっぺのふくらみがなんともいえないユーモアのある言葉を内蔵していると思う。それに実は照れ屋であるという内部告発文が撒かれそう。