茶禅一味

禅と能楽・茶(2) 「茶禅一味」(芳賀幸四郎 1908-1996)


茶禅一味ちゃぜんいちみとはなんぞや。
『禅とは釈迦と同じく坐禅し、釈迦と同じ禅定三昧の境地にはいり、その三昧力によって釈迦と同じ悟りを開き、さらに悟後の修行を継続して、釈迦と同じ境涯に到達しようとする行の宗教である。』 『禅の基本は禅定三昧の行であり、その目標は開悟である。』


『茶道の本義は、器の善悪を択ばず、点ずる折の容態を論ぜず、ただ茶器を扱う三昧に入りて、本性を観ずる修行なり。』 『点茶という行に託して三昧力を養い、その三昧力によって自らに本来円満に具有している仏性(本心本性、真実の自己)を徹見し開悟の実をあげることが、茶道の茶道たるゆえんである。』


『茶と禅と本来別なものが不二・一味でありうるのは、三昧という行とそれによる開悟と言う点で、相通ずるからである。』


三昧とはなんぞや。
云々


『茶と禅とが一味でありうるのは、単に三昧という基盤が共通であるからだけでなく、目標とするところに深く相通ずるものがあるからである。』→和敬清寂

ところで、『茶禅一味の前には、宋に「詩禅一味」などが流行し、自らを正当化するのに好都合の理論であった。金春禅竹の「能禅一味」もこの延長線上である。』


禅という付加価値をまぶし、茶道教が形成されていったのか? おっと、本の趣旨から脱線じゃー!まだ途中。