大倉正之助の世界

〜伝統楽器に触れるひととき〜
昨日、船橋市宮本公民館講堂にて。 よかった♪
まず、「三番三」(三番叟)を大鼓ひとつに集約した独奏(独演?)。や はー カン は カン ぉおーー カーン♪ 声と音との大饗宴、独り十人力から無限の広がりへ。すご〜。
お話
能の静寂とは、まず動きがあって、それが洗練され、削ぎ落とされして、幽玄に到達したものである。また、能の一期一会とは、春夏秋冬・季節感である。楽器も季節、湿度で音色が違うが、現代人は、いつでも決まったいい音を求めたりする。始めに出した音がだんだん整って、曲のクライマックスで最好調になる、という自然の演出があり、作り上げていくプロセスを見るのがいい。それは即興であり、意図した落し処というものはない。その時の出会いと拮抗が一期一会で、そこに居合わせた人々だけが共有するものである。一年中同じ音という表現の巾のないものに向かっていくのか、エコライフの感性を保つのか、能はいま、分れ道、『人間の感性の砦』と言える。
素手打ちというのはいにしえの奏法で、戦前は素手の人がいて、40年ほど前まで、京都に最後の素手打ちの奏者がいた。その音色にあこがれて、素手打ちを始めた。素手を続けて、プロテクターに合うように大鼓の皮が厚くなっているということに、つい1年(2年?)前に気がついた。よい職人さんにめぐり会い、昔の素手打ちの皮を再現してもらってから、指も癒されていくのを感じる。(それを伺って、こちらもほっと安心というか、気が楽になったという感じ。本当によかった。)
体験時間
「体験チャンスは挙手で勝ち取るように」というお達しでしたので、3人目くらいから一生懸命手を挙げて、勝ち取りました。何と、演奏に使われた400年前の胴の大鼓で、13?人がそれぞれの音を出しました。
どの音も音である。いらない音というものは無い!離れていった音に捉われないように。あれ?というような格好をしない!「今」に思いをこめて集中せよ。 これが体験前のご注意だったのですが、そのとき、私は自分のすべてがわかったような気持ちになりました。等身大の自分、あるがままの自分を認めるということは、結局、自分に自信を持つのと同じことなのではなかろうか、と。
何かパフォーマンスをしているときに、出来なかった部分に気がついて、ひょいとそれを入れてしまう。しかし、ふさわしい時は過ぎていて、過去に付け足すことになる。できなくてもいいのだ! それが出来なかったからといって、“実際の自分” でなくなるわけではない。それがリアルタイムの自分なのだから。
で、馬の皮をぴたぴたと鳴らしてきました。師が右手を動かして下さって振ったときに、小さくカッカといい音がして、指先も振動して、とても面白かった。やっぱり、アレとか言って「言わない」とご注意を受けましたが、すごーく楽しい気持ちでした。
最後はまた、即興の独奏で、いいところでお時間となりました。
日曜日の夕方からであることが影響しているのか、講堂にはもっと視聴者が入れたのにと残念です。