藤四郎春慶

中興名物関係「藤四郎」とは、「加藤四郎」「加藤四郎左衛門景正」であった! まさに、「とーしろー」な月日を過ごしてしまった。さすがに、この春慶を塗り物とは言わないけれど、実に紛らわしい。
   春慶塗…塗り色が、加藤四郎左衛門の名作、『飛』春慶茶壷
         の色に似ているところから、『春慶塗』と名づけられた。


きっかけは、漢柿蔕茶壷(あやのかきべたちゃつぼ・茶入)の写しの現代茶入の画像に遭遇したから。平べったくて大きな「大海」なのかな?ちょっと面白そう。昔、永楽正全が200個写しを作って、脚光を浴びたらしい。本歌は今でも、栂尾高山寺の最高のお宝だそうです。

検索で、その名も「茶道」というHP
http://verdure.tyanoyu.net/index.html
「茶道の道具」の「茶入」(ちゃいれ)の項に
http://verdure.tyanoyu.net/cyaire.html


(茶入とは)京都建仁寺の開山栄西禅師が宋から帰朝した際に、洛西栂尾の明恵上人に茶の種を贈るのに用いた漢柿蔕(あやのかきべた)の茶壷が始まりといわれ、元々は薬味入・香料入などに使用されていた容器を転用したものとされています。
「漢作唐物」と「唐物」の分類は曖昧で、主に伝来に依っています。
「漢作唐物」は、型造りで、胴継ぎしたところに継目を押さえた箆跡が胴紐となって残っているものが多く、薬味入・香料入などとして到来した物を見立により用いたと考えられています。
「唐物」は、轆轤仕上で、道元禅師に随って入唐し、唐で製陶を学んだ加藤四郎が、唐の土と釉を持ち帰り瀬戸瓶子窯で焼いたものとされていますが、中国へ注文して作らせたものとする説もあります。
「和物」は、藤四郎を陶祖として瀬戸窯を本窯と称し、四代目の破風窯までを個別に扱い五つに分類し、
藤四郎が日本の土で焼いたものを「古瀬戸」または彼の法号をとり「春慶」と称し、 二代目が焼いたものを「藤四郎窯」 「真中古(まちゅうこ)」「藤四郎春慶」 、 三代目が焼いたとされる金華山窯、 四代目が焼いたとされる破風窯を「中古物」と称する。
利休の頃の破風窯以後の瀬戸、美濃、京都などで焼かれたものを「後窯(のちがま)」と称し、「利休」「織部」「宗伯」「鳴海」「正意」など指導したとされる人物の名を取ったものがあります。
その他は「国焼(くにやき)」といわれ、各々その産地を冠して呼び名としています。
「島物」は、南蛮貿易などにより、東南アジア、南中国、ルソン、琉球などからもたらされた容器を茶入として採り上げたものをいいます。

つまり、
宋から持ち帰った薬味入に、お茶の種を入れてプレゼント → それにお茶(挽いた粉)を入れて使った → 輸入製品を茶入として使い始めた=漢作唐物 → 藤四郎が瀬戸で、大陸の土を用いて茶入として作り始めた(又は大陸への注文もの)=唐物 → 藤四郎が日本の土で作り始めた=和物 の始まり。
初代「古瀬戸」「春慶」 → 子孫の順に 二代「真中古」「藤四郎春慶」 → 三代「金華山」 → 四代「破風窯」 → その後、利休の頃、瀬戸・美濃・京などで焼かれたもの=後窯で、指導したとされる人物の名を取って「利休」「織部」「宗伯」「正意」「万右衛門」「新兵衛」「鳴海」と呼ばれた → その他の地は国焼といわれ、産地の名をとって「唐津」「祖母懐」「備前」「伊部」「薩摩」「高取」「膳所」「丹波」と呼ばれた。
初代藤四郎は、大名物と中興名物の両方に渡っている。


ところで、お茶の種を贈られ、撒いて育てた、抹茶の飲み方伝来後の日本初の茶園である明恵上人の栂尾高山寺の茶園は、戦(南朝派だったこととか、応仁乱とか)で消滅したままで、なんと昭和になって宇治の茶園関係者団体によって再興されたものだそうです。